蒼芸美術展

蒼芸美術展の発足について

遠藤によると、彼の個展を観にくる者の数は一週間で70名程度であるという。そのうち 彼の直接、間接の知り合いを除くと部外者の数はせいぜい10名あるかなしかだろう。これでは、個展が彼の閉ざされた人間関係を儀礼的に充足するだけに留まり、世間に対する自己主張にはあまり役立っていないように思えてならない。
 絵を続けるためには常に新しい刺激が必要である。刺激とは仲間内を越えた第三の目である。そのためには他者の作品を見、刺激を受け、そこから何かを掴み取ることが必要だが、自分の作品が第三者の目でどのように見られているかも知る必要があるのではないか。  他者の目は,常に気ままである。そのなかには、無視して過ぎるものもあれば、無理解からくる誹謗に充ちた視線を向ける者もあるだろう。しかしそれだけではないはずだ。数こそ少ないかもしれないが、ここには必ず新しい対話や発見があり、共感の眼差しがあるはずである。
 そのためにも製作者は、世間に向かってどう働きけけるべきかが問われることになるだろう。個展もたしかにその一つだが、今はやりのインターネットも試みる価値のある方法ではないかと考え、遠藤と話し合い、ネット上で蒼芸美術展を開くことにした。もちろんネット上には夥しい情報が氾濫しており、画家や美術グループについても膨大な情報が犇いている。したがって蒼芸美術展にどの程度のアクセスが期待できるか全く不明である。 それでもなお、実行に踏み切ったのは、その先に何があるかはやってみなければ、わからないからだ。早速、遠藤と長に作品展示の協力を依頼し、他にも遠藤の知人にも呼びかけて作品の写真を集めることにした。ホームページの制作は、息子の卓也が担当することになった。卓也は、パソコンによるビデオの編集や線画づくりにはある程度慣れているが,いわゆるホームペーづくりには必ずしも精通しているわけではない。そこでとりあえず仕事の合間をみて試作品として作ってみることにした。
 卓也は専用のソフトを手に入れ、テキストを参照にしながら,手始めに遠藤,長の作品を各10点ほどを収録した。その後、遠藤の紹介で貝野沢,その他4名の作品を加え、蒼芸美術展のホームページには合計7名の作品が掲載されることになった。
 しかしこれはあくまで仮のもので、今後ホームページは、デザインや内容も含めてさらに抜本的に作り直す必要があった。
 その後、会社としても日常の仕事に追われ、蒼芸美術展の修正もしばらくは放置されたままになっていた。ある日、長から、ホームページを作るために預けておいた作品の写真や資料か必要になったので引き取りに行きたいとの電話があり、新橋の事務所で久しぶりに長と顔を合わせた。
近々県北の烏山の郊外にある廃校を利用して展覧会をやるという。展覧会は地元の
APO主催による数名のコラボレーションで、その展覧会には彼の娘や知恵遅れで飛行機を描くのが得意な子供も参加するということだった。

 平成17年の春,蒼芸プロもビデオの仕事が急速に減ったことから、経費節減のため、長年住み慣れた新橋を離れて神田神保町に移り、再スタートをきることとなった。      
 6月には、引越しのかたづけもようやく終わり、農水省関係の仕事も一段落したので、兼ねてからの懸案だった蒼芸美術展のホームページを大々的に改変することにした。そこで早速、遠藤、長、貝野沢と連絡とり、今後の方針について話し合うことになった。直接の制作は卓也を中心に進めることとし、足利の長に改めてその旨を電話で連絡したところ、残念ながらこの夏は身辺多忙で東京に出られないという返事だったので、とりあえず遠藤、貝野沢ら東京勢で蒼芸展の手直しを進めることにした。

 最近の遠藤の仕事を見ると、一時期の大振りで重厚な女体像が姿を消し、このところ軽妙洒脱なコラージュが多い。市販の雑誌や新聞から感覚の赴くままに様々な写真を断片的に切り出し、厚手の画用紙やダンボールに張り合わせて彩色し独特の絵画世界を創り出している。騒音のように身辺に降り注ぐ多様な映像情報を解体し、発信者の意図を剥ぎ取ることによって、現代という虚妄な時代に、彼なりに痛烈なイロニーを発しているのかもしれない。出来上がった作品がどこか湿った腐葉土の匂いがするのは彼の持ち前の体質によるものだろう。

 長は、相変わらず体力のいる造形作品に精力的に取り組んでいるのではないだろうか。彼も、一傍観者である私も恒常的なサラリーマン経験が皆無に等しく、もともと社会的な区切りというものが無い。区切りがなければ、それぞれに試行錯誤を繰り返しつつ、先に進むための条件、常に新しいヴィジョンの開発が不可欠である。彼は、常に新しい表現形式を工夫し、社会に対する働きかけも精力的に行ってきた。また長は,抽象的な断片を組み合わせた造形作品と併行して、数多くの自画像も描いている。千変万化する色彩と激しい筆致で描かれた自画像は、自分とは何かを自画像という仮面を通して、内に秘めた鬱勃たる思いを訴求せずにはいられなかったのだろう。
 形のない内面の声を形にするためには、相対峙する対象を凝視するのもたしかに一つの方法だか、しかし凝視するだけでは新しい形相は見えてこない。そこに何かを発見するためには、既存の見方を一度捨象し、異なる考え方からの示唆がどうしても必要になる。その考え方は絵画や造形世界の中にももちろん含まれるが、抽象的な言語によって構築された多様な概念装置の中にも多くのヒントが隠されているように思われる。
 現に転換期に遭遇した画家の多くは、時代をリードした思想を導きの糸として作品の革新を試み、斬新なスタイルを形作ってきた。そうした製作者の多くは、作品の技術的完成度、手工芸的な洗練をある程度犠牲にしても斬新さを選びとったのである。次々にスタイルを変える長のこれまでの制作態度には、明らかにそうした兆候を見て取ることができるように思われる。

 貝野沢は,群馬県の館林市郊外でこの春から夏にかけて数名合同で長期の絵画展を開いていた。事前にもらった案内状には、幻の宝島か,はたまたロック鳥の棲む島か、誰もが一瞥して、一瞬、空想の世界に誘い込まれるような不思議な島が細密な筆致で描かれていた。少年期のドリーミーな体験をそのまま投影したかのような古地図。その中を彷徨よう人々は、どのような風景に出会うのだろうか。
 貝野沢の描く風景は、山のあなたの世界である。そこには島を分け入った孤独な旅人が目にするであろう紫かがった淡い静謐な極北の風景が広がっている。その風景には、異世界の漂流者ガリバーのような奇形人や馬人相手の諧謔に充ちた饒舌は微塵も見られない。俗世間の雑音や表現をめぐるかまびすしい議論も全く聞こえてこない。聞こえているのかもしれないが、それは彼の描く峻険な山襞深く隠されている。
 彼は、これからも未だ見ぬ島嶼の景観を一つまたひとつと尋ね歩くのだろうか。この先にどのような展開があるかは定かではないが、彼の描く風景は、これからもその延長線上に開花してゆくことになるのだろう。

 外部からの疑問や評価、またそれぞれの自己確認を含めて、計画されたのがネット上の蒼芸美術展である。絵を描く者は、社会から孤立したままでは描きつづけることできない。エネルギーの源泉は、画家個人うちに胎動するものだが、表現されたものは、それを観るもの、受け手の側の理解が成立してこそはじめて意味を持つ。だからこそ、それぞれの表現が社会的に認知されるよう、できるだけ多くの人々に向かって開示される必要があるのだ。






   
 

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