蒼芸美術展

光の輪を広げる努力を                                  

今日、われわれは多くの名画を照明の行き届いた美術館のなかて見ることができる。しかしそれは無数に存在する絵画作品のほんの一部を見ているだけである。喩えていえば深い闇の中で洞窟壁画を見るように、誰かが照らし出した小さな光のなかの世界を観ているに過ぎないのではないか。スポットライトの背景には、常に巨大な闇の広がりがあることも忘れてはならないだろう。
松明の明かりを翳して立ち止まることなく、さらに洞窟の中を進めば、壁画の数はさらに増えてゆくはずである。そしてその一つひとつが新たな感動を呼び覚ましてくれるに違いない。しかし今日、われわれは眩い光のなかで、いわゆる名画に親しむことによって、それ以上の探索を放棄し、ある種の優れた才能を、同時に闇の中に放置しているかもしれないのである。
もともと絵画の序列は、あくまで仮りのものである。有名無名を問わず、それぞれの絵画には表現技法や内容に様々なレベルがあるが、なかには優れた資質を持ちながら松明の光に照らされることもなく、闇に埋もれたまの才能も少なくないはずである。われわれは、しばしば知名度や全く別の尺度である市場価値によってその作品の優劣を論ずることが多いが、別な見方をすれば、それは自らの松明を放棄しているからである。
絵を見る愉しみは、小さくても自分の懐中電灯を持って洞窟の中に分け入り、闇の中に聞こえる新しいものの胎動に耳を傾けることである。そこには必ず新鮮な出合いがあり、発見の悦びがあるはずだ。松明の輪のなかに理解不能な点があれば、その画家が何を考え、何を表現しようとしているかを直接問いかけ、もし疑問があれば、さらに対話を深めてみるのも絵を見るときの醍醐味の一つではないだろうか。

光は同時にすべてのものを照らし出すことはできない。ある日、燦燦ふり注ぐ太陽の光のもと、縹渺たる詩情豊な風景のなかに佇んでいたとしよう。その時、われわれの目はすべてのものを一望もとに見ているかのようにふと錯覚するが、しかし実際に見ているものは、人によって見方は異なるものの、ものとしては、限られたその一部を見ているに過ぎない。
一方、カメラは人間の目と違い、そこにあるもののすべてを均等に写し出す。もちろんカメラも対象、アングル、サイズなど、写し手の主観と無関係ではかいが、レンズの目は捉えた対象を細部に至るまで忠実に記録する。そこに人為的な意図を加えない限り、そこにあるものを恣意的に捨象することはない。
比較して人間の目は、目の前ある対象を主観的に認識する。その主観を規定するものはその人固有の知識や経験であり、視覚世界に限っていえば、これまで出合った数々の絵画や写真の記憶がそれに加わる。またカメラは暗闇の中では全く無反応だが、人間の心の目は闇の中でも、生理的な破綻からくる病的な幻覚は別として、意識的に、現実に存在しない心象風景を映し出すことも可能である。
現代絵画は、絵画のベースにあった自然を離れて、対象を意識的に主観的心象風景に移し換え、数々の斬新な趣向の作品を生み出してきた。たとえば抽象絵画では、セザンヌが現象の背後にある幾何学的な構造体に着目したように、画家は自然から大きく距離をおき、それをさらに先鋭化し、形や色彩、線に還元して、そのままキャンバスの表面に現わすようになった。
それらは同時に、機能的な都市景観や様々な機械器具の氾濫と決して無関係ではないだろう。しかし一見、光輝いているように見える都市風景は、一見、透明で合理性に裏づけられているように見えるが、また一方では、欲望と喧騒の背後に深い闇の世界を生み出していることを忘れてはならない。                    
その闇は、群集が醸し出す不可思議な熱狂と支配する者の意図的な情報操作に由来するものだが、闇は、俗世間の側だけにあるでなく、真摯に制作に打ち込む作者の中にも、入り組んだ地底の空洞のように広がっているのではないか。昨日までそこにあったものが、ある日突然消え失せ、その先が一向に見えてこないことも少なくないはずだ。
絵を描く者にとって今問われているのは、よって立つ基盤を何におくかではないだろうか。自然、伝統、現代が生み出した多様な絵画形式、思弁的な哲学、あるいは長い時間をかけて意識的、無意識的につくり出してきた自身の趣向性、慣れ親しんだ日常世界への回帰、いずれにしても内外の基準そのものは、常に流動的であり続ける。 
古代人たちが、どのような動機に促されて、暗がりの中で壁画の制作に没頭したかは不明だが、人知を超えた力への畏怖があったことはたしかだろう。しかし描く者は決してそれぞれが孤立して制作を続けていたわけではない。そこには種族が共有する情念があったはずである。                                  
しかし今日、絵を描く者の多くが、共有する世界を見失い、砂粒のように拡散されて、ますます孤立化を深めつつあるように思えてならない。そこから脱出するためには、相互に、それぞれの作品を通して対話を積み重ねつつ,光の輪をさらに広げる努力を続ける必要があるのではないだろうか。                         






   
 

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